やかんです。

今日は投稿数多めの1日になってますね、なんだろう。暇なんすかね。

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ひまひまプリン

さすがにしんどいですね。はい。記事の内容に先んじて申し上げますと、今回の記事は結構気持ち悪いのでご注意ください。不毛な小難しいことを考えている気がしてなりません。

虚無について

「虚無こそ全てなのでは」という感想を得た、という話になります。

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※以下語り口調が気持ち悪いかもです。

何かに取り組んでいる時には、充実感が伴う場合がありますね。充実感までいかなくても、「自分はこれに取り組んでいるという点で満たされんな」みたいな。

でも、それは虚無と並行して存在する「何かに取り組んでいる」という状態に意識が入っているだけだと思い始めました。

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急にキモくてごめんなさい(いつも、、?)

虚無自体は依然として存在しています。で、取り組んでいた何かに向いていた意識が十分に小さくなると、虚無の存在に対する意識が十分に大きくなります。

少なくとも僕は、虚無から逃れたくなります。何かをしていれば一時的に虚無から逃げることに成功するかもしれないです。夢中になれたら最高な気がしますね。

でも、そもそも原理的に虚無からは逃げられないという話です。逃げようとするだけ無駄、みたいな。多分、虚無というものは一生付き纏います。「人間」という定義に「虚無が伴われる」という要件が内包されてるみたいな。一生虚無虚無プリンなわけですね。ポムポムしたいけど不可能なわけです。

不可能。

で?

虚無は怖いので逃げたいです。逃げられたら万事OKなのかもしれませんが、それは不可能です。となれば、もう虚無と上手に付き合っていくしか無いです。

何かに取り組んでいるときはまるで虚無なんて存在しないかのうような、ある意味「順調な」状態にとどまることができますが、虚無の存在を忘れてしまいたくはないという考えです。また、「虚無なんてオレには存在しないぜ!この状態こそ至高である!」と酔いしれてしまうのは、鉤括弧付きの「順調」なのでは、という考えです。鉤括弧付きの「順調」は、大事なものが欠落しているという点で危なっかしいと考えられます。

となると僕にできるのは、虚無の存在を認めてあげた上で、それを伴いつつ、何かに取り組むにしろ取り組まないにしろ日々過ごすということになりそうです。言うのは簡単ですね。やるのは激ムズな気がします。

最後に。

最後に、僕の頭の中にある文言をそのまま吐き出します。「そのまま」なわけなので、まあそれはそれは気持ち悪いですがご了承ください。

人生、虚無からは逃れられない。まずはそのことを認める。抗おうとしないで、受け入れる。虚無が感じられた時は、「ああ、虚無があるってことは生きてるってことだな」ってことだから焦らなくていい。また、「虚無があるからどうこう」とかじゃなくて、逆に言えば「虚無はそこにあるだけ」だから。不要な意味づけから解放する。力んで埋めようとしなくていい。あるいは、「虚無から逃げない」という決意が必要なのかもしれない。虚無から目を逸らしているか、見ずに済んでいるだけという勘違いに酔わない。

やばいですね、だいぶ気持ち悪いです。ということで今回の記事は終了です。最後までお読みいただき、ありがとうございます。